Vol.20 直感と閃きの子育て①
旅行に行こうと思ったら、海で泳ぎたいとか、美味しいものを食べたいとか、見たいものがあるなど、まずは何をしたいかを思い描くでしょう。そして、美味しいものを食べたければ、どこに行ってどの宿に泊まるか調べ、ホテルを予約し旅行のスケジュールを立て始めることと思います。
旅行に出かけるには、第一に意図であったり意思であったり、またはどこに行こうという希望がなければ、玄関から一歩も出ることはできません。出発するには、どちらに向かって歩きはじめたらいいか、進む方向を知る必要があります。意図なしにただフラフラと歩きはじめる人はいないと思います。
子育てを旅行に喩えてみましょう。子育てにも希望を持ちます。そして希望、意思、夢を、漠然とした感覚ではなく明確なビジョンとして、心にイメージを描きます。
「子どもにはこのように育って欲しい」という、あなたのビジョンは何か、しばし考えてみてください。どうぞ大きなビジョンを自由に浮かべてください。
というように、大きなビジョンから、いま何をするべきかというところまで、上から下に逆算してやるべきことを考えることで、今この時点で何をすべきかが見えてきます。物事を成就させる時には、こうした思考のプロセスを経て行動に至るまで、実行することも大切です。しかし、クリエイティビティ―を発揮する際の「フローの理念」のように、ビジョンを描いた後は、考えたり予定を立てたりなどせずに、敢えて思考を手放すことを知っていると、物事が意外にも上手くいくことを体験できることと思います。
※「フロー体験」、「フロー理論」で検索して調べてください。
まるで魔法のような効果と思える、物事を引き寄せる方法は、特殊なスピリチュアルな世界のように、見えない世界が見える人にしか分からない世界ではなく、近年では脳科学でも、その輪郭は説明されています。誰にでも五感だけでは認知することができない、超越された意思や叡智があります。そこに辿り着くには、知覚できることを敢えて手放し、膜、限界、枠を外してその領域に入り、内に眠る「知」にアクセスできるようになるのでしょう。
※人が認識していることは全てではないということを、デイビッド・イーグルマン博士は脳神経科学の分野から説明しています。
子育てや人生を飛行機の操縦に喩えます。操縦することを手放し、頭で考えない自動操縦に切り替えられたなら、後ろの席に坐って完全に身を委ねお任せし、景色を楽しむことができます。別な言い方をしますと自動操縦の状態は、自然の流れに乗った状態であり、あなたが(こうしたい)と思うことが、その流れと一致してさえすれば、自らが操縦をしなくても、あなたが行くべき所に、自動的にあなたを運んでくれます。その反対の方法とは、操縦を任せることができずに、自分自身の頭を使って、ボタンがたくさんある複雑な操縦方法を覚え、常にコントロールしなければいけない状態です。その場合、情報をかき集めて頭で考え、そして人や自然の力を借りずに、自力で進んで行きます。
“大きな縄跳びの輪の中に入っている状態”
の中に、ひょいと逆らわず入ってしまえば、ほとんど苦労せず、その場で少しジャンプするだけでいいという体験を味わうことができます。私自身の体験は常にその連続でした。こうしたマインドの在り方は、現代の脳科学や古代からの宗教でも言及されています。
しかし行動する前から、(それはできない)と思っていたり、または(焦ってどうしたらいいか)計画を立てたり、複雑なことを頭で考えるのでは、自分自身が認識できる枠内から、決して抜け出すことはできません。限界を抜け出るためには、自分の思いが自然の流れに沿っているかどうか、自らの直感に耳を澄ませることが重要です。人の中に眠る叡智にアクセスするためには、自分の内に問いかけ心静かにいることで、自然と答えは現れてくれるものです。その声が聞こえるようになるには、直感の声に耳を澄まし、直感で体が感じる方向に、素直に導かれる様、自分自身の体と心を修養していきます。
では自然の流れとは一体なんなのでしょう?それを神と呼ぶ人もいれば、宇宙の法則と呼ぶ人もいるでしょう。私は宗教は持っていませんので、それ (it) をどのような名称にするかは特定しません。一体どのようなことが宇宙の法則や、宇宙の流れ、または神の計画なのか、もし分かっているという人がいたら、自分の思想を絶対視する原理主義となり、そこから先、思考は進まなくなるでしょう。ちなみに仏陀は、たとえ犯罪人であっても、仏になれることを説いています。キリストもまた、自分のことを崇めてはいけないと説いていました。どちらも特定の人や特定の思想に限らず、全ての人の内に叡智があることを説いていたのです。
それでは自然の摂理から反れてしまったと思える、具体的なお話をします。昔、我が家でナサニエルくんという、3か月の赤ちゃんを一月半ほど預かったことがありました。うちの息子が小学校4年生の担任の先生の子どもです。お母さんのトレーシーはその頃、ナサニエルがうちに来るようになってから、泣くことが少なくなり夜はぐっすり寝るようになったと言っていました。私は彼女に赤ちゃんをどうやってあやしているか、どんなトレーニングをしているか、マッサージやブレイントレーニングの方法など、自分がやっていることをシェアしました。彼女はいたく私を信頼してくれて、同じ時期にお孫さんができた、彼女の同僚の先生のお孫さんが、どうしても泣き止まないという問題があったため、私のところに相談しに行くよう勧めました。
ある日曜日、トレーシーの同僚の先生から電話があり、「今息子のところに来ているのですが、赤ちゃんがいつも異常に泣くので、息子とお嫁さんと赤ちゃんを連れて、相談しに行きたい」と言われました。私は「専門家ではないので、どんなお手伝いができるか・・でもお話を聞くだけならできますが・・」と言うと、「今ちょうど赤ちゃんが寝てしまいそうなので、今からすぐに行きます」と言って、詳しい話を聞く前に、なんだかドタバタと彼らが家に来ることになりました。
実は丁度その日、私と夫の友人で、母乳の研究を学会で発表したことがある、マータという栄養学の博士が、家に来ることになってました。おばあちゃんが電話で口早に言っていたことは、赤ちゃんの腸の具合がどうもよくないようで、粉ミルクは何を使ったらいいか、またはヒューストンで小児科の腸の専門家で、いいお医者さんを見つけるにはどうしたらいいか、ということで悩んでいるということでした。マータは母乳の研究をしている博士、そして彼女の別れたご主人ロブは、なんと偶然にも全米でも有名な、テキサス・チルドレン・ホスピタルの小児科の腸の権威です。こんなタイミングが良いラッキーなことはないと、私は内心ワクワクしながら、彼らが来るのを待っていました。
ところが少ししてから、またおばあちゃんから電話が掛かってきました。今度は、「息子とお嫁さんが、他人から自分たちの子育てについて、何か言われるのは嫌だから、子供を連れて行きたくないって言っています。ですから残念ですが、親本人が行かないというものを 私が無理やり連れて行くことはできません・・」という、断りの電話でした。私は「それは構いませんが、ところでお母さんは母乳をあげているのですか?」と聞いてみました。なぜだか問題はそこにあると感じたからです。そうしますと小さい声で「ノー」と言います。後ろでお嫁さんの声がしていたので、多分話し難かったのでしょう。それに気づいたので、おばあちゃんがイエスかノーかで答えられる質問をしてみました。
「母乳はでないのですか?」
「ノー」
「じゃあ出るのですね」
「イエース」
「では科学的な理由があって母乳をあげたくないとか?」
「ノー」
「ではただ単に嫌なだけ?」
「イエース」
「お嫁さんの気持ちが変わる可能性は?」
「ノー」
「それでは、お嫁さんを説得することはできそうですか?」
「ノー」
といった会話でした。
結局は、若いお母さんが自分の体形が崩れるのがいやだから、赤ちゃんに母乳をあげたくないということだったのです。それで粉ミルクが合わなくて、赤ちゃんはお腹が痛くていつも泣いている。しかも、このお母さんとお父さんは、子育てについて人の意見は聞きたくない、ということだったのです。私はこれはとても象徴的な出来事に感じました。もし、この若い夫婦が自分中心ではなく、赤ちゃんのためを考えていたら、もともとこのような問題はなかったかもしれません。また、かわいい我が子のために、人の話に聞く耳を持っていれば、私の家にたまたま来ていた博士で、子どもの栄養の研究をしている博士から、詳しいお話を生で無料でプライベートで聞くことができたのです。
ここでの自然の流れとはとても簡単なことです。赤ちゃんのために、お母さんが母乳をあげるということは、誰が考えても自然の摂理です。自然の流れに繋がるには、何もいろいろな本を読んだり、専門家に話を聞いたりする必要は全くありません。
話を元に戻しますが、彼らはマータが来ることは知りませんでした。2回目の電話の時に私は考えました。このことを言うべきか言わないべきか。でも、彼らに無用な後悔の念を抱かせる必要はないと考え、私はマータと彼女の元ご主人の小児科の先生の話は、赤ちゃんのおばあちゃんには伝えませんでした。そうなんです。ですから彼らは、一体どのようなチャンスを失ったのか知らないのです。
この時私が思ったのは、では一体、私自身はこれまでに、どんなチャンスをどれだけ逃して来たのだろうか?ということでした。今の自分が立っている位置、今の自分の顔、今の自分の人生は、全て日々の小さな選択の積み重ねの結果できている。右か左か小さな選択と思えるようなことで、物事が大きく変わることを目のあたりに見て、とても身に沁みる経験となりました。そしてもし、彼らが自然の摂理に従っていたら、それは彼らの人生だけでなく赤ちゃんの人生をも、大きく左右することになります。大人は自分の選択で生きてきたから仕方ない、と言えるかもしれません。しかし、大人の日々の小さな選択によって、全く無防備な子どもたちの人生が、大きく左右されると考えると、私たち親は、本当に毎日、心して選択をしなければいけないと、改めて考えさせられたのでした。
しかし、それではいつもいつも、正しい選択をするために、常に考えていなければいけないかというと、きっとそうではないでしょう。それよりも先ほどからお伝えしている、自然の流れ、つまり大きな縄跳びの輪の中に入っていさえすれば、全てはスムーズに、しかも自分の頭では考えもしなかった、時には驚くほど完璧な形で、私たちは導いてもらえることが多々あります。
次は、私たちの経験をお話をさせていただきます。我が家では息子に彼がとても小さい頃から、「学ぶということ、勉強するということは、自分のためにしているのではなく、将来、人のお役に立てる人間になるために、その準備をしているだけなのだ」と教えてきました。夫と私の興味は、息子が学校で良い成績をとることではなく、彼が何を学んでいるかにありました。ですから、息子には小さい頃から、家で様々な教育をしてきました。
ところが、私たちは数字がとても苦手なのです。二人とも数字に弱く、方程式などとても教えることはできません。しかし息子は10歳くらいの頃、既に方程式を覚える準備ができているようでした。そこで夫は、「じゃあ、ボクが数学を今から覚えるよ」ということで、気合いをいれて『数の起源』などというビデオを借りてきました。夫がビデオを観ている時、彼の肩越しにチラッと覗いてみると、「0の起源・・・」なんていうところから観ています。その時、私は自分たちで数学を教えるのは、絶対に無理だと悟ったのでした。
ところが丁度その頃、お友達のモンテッソーリの先生から、「モンテッソーリの教材を使って、放課後にDuganに数学を教えてあげようか?」というオファーをされました。それは信じられないくらい絶妙なタイミングでした。しかも、私たちが知恵を絞っても全く考えもしなかった、完璧な方法でもありました。結局、息子は公立の学校が終わってからモンテッソーリに行き、小学校のレベルから中学校のレベルまで、一気にモンテッソーリの教材で、方程式の基礎を友人に教わることができました。
考えすぎて四苦八苦したり、不安になったり心配したり、または色々な本を読み漁って勉強したり、情報をかき集めることに時間を費やすよりも、時には物事は頭で考えず、自然の流れに耳を澄まし、直感で感じる通りに動く方が、スムーズにいくと私は信じています。そのために、どうしたら縄跳びの輪に入ることができるか、それが分かれば究極の知恵となります。そうなれば頭で考えるよりも簡単なだけでなく、自分で認識していたり、想像できる以上のことが降って来てくれます。