Vol.30 賢い子はスピリチュアルに育てる①

■ スピリチュアリティーについて考える①

ある日友人が、「スピリチュアルなことを学べる、師のような人を探したい」と言っていました。それを聞いた私は、(スピリチュアルな生き方を教えてくれる師とは、一体どのような人なんだろう)と思ったものでした。が、その数日後、正に「スピリチュアルに生きている人とは、このような人のこと」と思う方に出会いました。

夫のロバートが主催者の一人だった、ヒューストンで英文学を教える大学教授のための講演シリーズに、招待でスピーチをされた元ペンシルベニア州立大学教授である、75歳の女性にお会いしました。夫が土曜日に、ある人とのディナーのホストになっていて、私にも一緒に来て欲しいと言うので、行って来たのですが、他の人たちも来るのかと思いきや、私たち夫婦とマーサ・コリンさんの3人だけのディナーでした。しかし初めてお会いした、マーサの優しく知的で誠実な笑顔から、私は一瞬で安心感を与えて貰いました。この背筋がピンと伸びシャキっとしている75歳の女性。つい先ほど約150人もの大学教授たちの前で、話をしてきた後とは思えないほど、疲れている様子もありません。

私たちはすぐに打ち解け、数時間の間にかなり深くまで、色々なお話をすることができました。彼女は話の中で「私はとても幸運だったのよ」と、何度もおっしゃっていました。しかし、よくよく聞いてみますと、彼女の人生は決して楽なものではなかったようです。マーサは高校の同級生と結婚し、大学には進学しませんでした。しかし、子どもを4人生んでから、ご主人と共に、新たに大学で学ぶ道を選びました。一時はとても貧しく、家族はトレイラーホーム(キャンピングカーのようなもの)に住んだこともあったそうです。現在は大学教授をリタイアされて何年も経ちますが、彼女の書いた英文法の教授法は、今でも多くの大学の授業で使われています。今は雲の上にいるような人ですが、彼女は30歳過ぎてから、秘書をしながら学校に通い、同時に4人の子どもたちを育ててきたそうです。

現在、彼女と彼女のご主人は、ペンシルベニアの75エーカー(甲子園球場=9.8エーカーなので、甲子園球場の7倍以上もある広さ)という、広大な土地に住んでいます。その土地を購入した頃は、建物の付いていない土地を買う人はほとんどいなかったらしく、とても安く購入できたそうです。そこには古い農家の建物があったそうですが、ボロボロだったため住居可能な建物と鑑定されなかったのです。しかし、現在はその土地の周りは高級住宅地となり、今では彼女たちが安く手に入れた土地の値段は、信じられない価格になっているということでした。このことについて彼女は、「ただ、その時その時、正しい選択をするように心がけただけ」と言っていました。

例えば彼女は、「私の夫は、私のベスト・フレンドなの。こんなに幸運に恵まれた結婚生活はないわ」と軽く爽やかにおっしゃいます。しかし、幸福な結婚生活というものは、ただ単に棚から牡丹餅みたいに、人から与えて貰うのではなく、自分たちで努力して築き上げてきたものなはず。でも彼女はとても謙虚に、幸運な人生を送れることに、自然にシンプルに感謝しているのです。マーサは「私たちは、今、自分にやれることを精一杯やりながら、ただ一瞬一瞬を生きてきただけなのよ」と言いました。このような言葉は聞くのは簡単です。「今を生き切る!」ということは、コンセプトとしてはシンプルです。でもそれを実行するには、知恵と勇気と行動力と正しい信念がなければ、そう簡単にできることではないはずです。

彼女がそう生きてきたこと、また今でも毎日を精一杯生き切っていることの証は、彼女の顔やご本人からかもし出される、まろやかなエネルギーが物語っているようでした。私はディナーの途中で、とても不思議な感覚に陥り、マーサのことをマジマジと見てしまいました。なぜなら、目の前にいる人の姿形は75歳なんです。でも、どうしても30歳~40歳くらいの人としか思えない、若々しい人と一緒にいる感覚だったのです。そして、彼女にその通り思ったことを言いました。するとマーサはすかさず、「私は身体が物理的に75歳というだけで、心は若い頃のまま変わってないの」と、生き生きとした目で私を見つめ言いました。

さて彼女は、ペンシルベニアからヒューストンに来る道のりで、とても面白いエピソードがあったということで、お話をしてくれました。彼女の乗っていた飛行機の便は、雪のため予定変更となり、ヒューストンではなくダラスに到着しました。ダラスからヒューストンまでは、車で約4時間半かかります。次の日にはキャンセルできないヒューストンでの講演があったため、レンタカーを借りてヒューストンまで、自分で運転をするしか打つ手がないといった状況でした。そんな折、やはりヒューストンに行こうとして足止めになった若者と出会い、マーサがレンタカーを借り、その若者が車を運転することになったそうです。

背が高くハンサムで黒ずくめファッションの(テキサスにはあまりファッショナブルな人はいないので、多分目立ってたはず)トラヴィスという23歳の若者は、カルバンクラインのモデルをしていました。4時間半のドライブの間、彼らはとにかく喋り通しだったそうですが、トラヴィスは自分はいつ死んでもいいように、焦って今を生きているということをマーサに打ち明けました。トラヴィスの家族はみなタバコを吸い、お酒を飲み、とても不健康な生活をしているということで、みな寿命が短いそうなのです。トラヴィスに刷り込みされた意識は、(自分も早死にするだろう)ということで、これまで自分自身の人生を 長いスパンで考えてみることができなかったそうです。なので彼の選択には、大学に4年間も費やすなど、早死にするであろう自分には、やりたくてもできることではないという、無意識の思い込みがあったそうです。

しかし、彼の目の前に75歳の生き生きとした、好奇心と行動力に満ち溢れた健康な女性がいます。彼女の姿そのものだけでも、言葉がなくても十分な説得力があります。が、マーサは元大学教授ということもあり、お話もとても上手です。なので彼女は、トラヴィスに押し付けではなく、きっととても優しく自分の人生を語り、そして「あなたにはまだまだたくさんの時間があるのだから、自分がやりたいことはなんでもできるのよ」というお話をしたそうです。その時トラヴィスは、このことは自分の人生を大きく変えるターニングポイントになったと、大泣きしたそうです。マーサのように人生を精一杯生きている人は、人に幸福感や気づきや元気を与えることができるのでしょう。現に彼女は、その時の数日間だけでも、トラヴィスを始め、講演に来た多くの人たちに、ユーモアに溢れた心温まるお話をしながら教授法を教え、そして私と夫も、彼女から気付きと元気をもらいました。まるで彼女が歩く道々に、色とりどりの花を咲かせるようにです。

マーサのように、今この地に足をつけて、一瞬一瞬に喜びを感じて生き、そして、生かされていることに感謝をしながら、自分にできることで人々や社会に貢献して生きる。私は本当の意味でのスピリチュアルな生き方とは、そうした生き方ではないかと思わされました。あなたをお母さんとして生きている人生から、浮き足立たせてしまうようなスピリチュアルな世界への誘惑ではなく、今、何をすべきかということを気付かせてくれ、導いてくれる人が、あなたのことを考えてくれる人です。そして、もし今、あなたが生きている「この場」、「この時」にフォーカスして生き、目を見開きさえすれば、きっとあなたの周りには、人生での大切な学びを教えてくれる師は、探さなくても既にたくさんいらっしゃることでしょう。地に足をつけて今ここに生きる。そうして私たち自身も、道行く先々で花を咲かせることができる人間になりたいものです。

※ スピリチュアル・マテリアリズム

地に足のついたスピリチュアリティーの反対にあるのは、スピリチュアル・マテリアリズム Spiritual Materialism と呼ばれるものでしょう。スピリチュアル・マテリアリズムとは、たとえお金や物という物質に固執しなくても、悟りの境地や、特別な能力という霊的物欲に囚われていることを言います。
■ スピリチュアリティーについて考える②



ナルニア国物語
という映画をご覧になりましたか?この映画を観てとても印象的だったのは、小さな子と大きな子では、新しい物事や出来事に対する受け入れ方が違うという点でした。

映画の始めの方のシーンで、兄弟4人が大学教授の家に預けられるのですが、教授の大きな屋敷の中で隠れんぼをしている時、一番年下のルーシーが、衣装ダンスの中に入り奥深くまで潜っていきます。ルーシーが何着もの毛皮のコートをくぐり抜けて行くと、突然現れるのが白銀の世界のナルニア国でした。ナルニア国では彼女がこれまで見たこともない、下半身が馬のよう、そして上半身が人間のようなタムナスに出会います。ルーシーは少しビックリしますが、新しく出会うものを既存の概念というフィルターを通して見るのではなく、そのまま丸ごと受け入れていきます。

ルーシーのキャラクターの説明はこのように書かれています:
神秘の扉に導かれて、ナルニア国に最初に足を踏み入れるペベンシー家の末っ子ルーシー。目の前で起こる不思議なできごとをあるがままに信じることのできる、無垢な心の持ち主。そして、人を信じることを恐れず、誰の中にも善なるものを見いだす彼女は、幼いながらも常にその手で運命を切り開いてゆく強さを持っている。ところが、後からナルニア国に行くことになる、ティーンエイジャーのお兄ちゃんピーターと長女のスージーは、ルーシーのように“そのまま受け入れる”ことはできません。これまでの経験と体験、つまり自分たちが生きてきた中で、既に学んだことと照らし合わし、(そんな生き物がいたらおかしい、ここはボクたちの来るところではないから早く帰ろう)というリアクションになります。

小さな子どもというのは、フィルターを通して世の中を見ていないのですね。そもそも、小さければ小さいほど、社会通念やさまざまな観念を学んでいないのですから、例えば赤ちゃんにすれば、二本足の馬だろうが、四本足の馬だろうが、全て初めて見る不思議で面白い生き物なはずです。物事をそのまま、何の観念もなく見られる小さな子どもは、様々な観念を持つ大人と違い、純粋に全てのことを受け入れることができるのでしょう。そして小さな子どもであればあるほど、つまり生まれてから、様々な観念を植え付けられていなければいないほど、物事の本質を見る力があるのではないでしょうか。

生まれたての赤ちゃんは、その究極だと思います。しかし、物事をそのまま受け入れる純粋な物の見方は、世の中はこうであるはずだ、物事はこうあるべき、という固定観念を持つにつれ消えていきます。「これはこうであるべき」、「こうするべき」、「こうじゃなかったらおかしい」、「こうしなさい」と大人は言いますが、でも果たして、私たちは本当に“真実を知っている”のでしょうか?私たちの考える“こうであるべき”というのは、本当に真実なのでしょうか?

世の中には私たちには知覚できてないことばかりです。知覚できなければ、何が見えてないかさえ分かりようがありません。簡単に言えば、椅子やテーブルや人間の体の、動く分子のエネルギー活動は、私たちには見えません。ただ私たちには、椅子やテーブルや人間の体が、椅子やテーブルや人間の体という固形に見えているだけなのです。鏡に映った自分の姿さえ、真実かどうか分かりません。

そう考えると、100人いたら100通りの見方があってもおかしくありません。自分自身の経験では、日本にいた時の社会通念とアメリカでの常識でさえ、同じ先進国であってもかなり違うのですから、“こうであるべき”という考えよりも、“そうかもしれないけど、ああかもしれない “と、どっちが正しいという事ではないことの方が、世の中には多いに違いないと思うのです。

そして、ただ違うだけの物事を(違うのだな)と、そのまま受け入れればいいのですが、世の中の多くの大人たちは、違いを認めることができず、正しい自分、そして間違っている他人を主張し、極端な例では戦争にまで発展しているというのが現実です。そのように、常に自分たちの“こうであるべき”という固定観念に固執することで、多くの人たちを自分のエゴに巻き込み、不幸に陥れているのです。

違いを認められない、または他者より自分の方が正しいと思う見方を 私たち親は子どもたちが小さい頃に、知らず知らずのうちに植えつけているかもしれません。反面、子どもたちには固定観念を抱かせずに、違う考え方や見方があることを理解し、柔軟な目で物事を見る姿勢でいて欲しいものです。となると、まずは親自身が、心の目に付けている目隠しを外さなくてはいけません。

こんなお話があります。コロンブスがアメリカ大陸を発見した時、アメリカ・インディアン達には、陸に近づく大きな船が、かなり目の前に現れるまで見えなかったそうです。それは、彼らにとって海の風景とは、大きな船が浮かんでいるはすではなかったからです。

しかし、シャーマンが「どうもこんな形の物体が陸に近づいて来ているようだ」と語るのを聞き、彼らは初めて海に船が浮かんでいることに気づき、しかもその船が、かなり目前まで陸に近づいていることを知ったそうです。彼らに船が見えなかったのは、視力が弱く生理的に肉眼でそれを見ることができなかったからではありません。彼らの見る力を妨げていたのは、海とはこういうものである、という固定観念だったのです。大人たちは多くのことを知覚していると錯覚し、実にたくさんのことに固定観念を持っていると思います。しかし固定観念、先入観念、こうあるはずだ、こうあるべきだという考えこそが、私たちの気づきの限界、そして足かせとなります。

さて大人にとっても、自由な発想で物事を大きく広く見ることができ、小さなことで人や物をジャッジせず、私たちの考えや存在そのものを そのまま見てくれる人、、、そんな人といると、自分自身も大きくなったような感じがし、一緒にいるとなんだか気分を良くしてくれる人っていませんか?反対に、狭い物の考え方や、固定観念で多くのことを決め付け、人のことを常にジャッジしている人と一緒にいると、とても窮屈な感じがしません? 大人だってそう感じるのですから、自分よりはるかに身体が大きく、威圧感のある大人と接する子どもたちにとって、彼らをギュウギュウ詰めにしてしまう大人の固定観念は、かなり辛いのではないでしょうか?一度植えつけられた観念を取り払うのは、なかなか容易ではありません。ですから子どもには、自由な発想を好きなようにさせてあげ、缶詰の中に押し込むのではなく、思考の幅をどんどん広げてあげるような、そんな接し方を常に心がけていたいものです。

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