Vol.8 家庭で社会的知性を育むには?

日頃から子育てや教育に関する本を読み、情報収集に長けているお母さん方に限らず、現代、往々にして多くの親は、Vol. 4でお伝えしました子育ての指針の、「1.頭」、「2.体」、「3.心」、「4.社会」の4つのうち、主に「1.頭」(知識や知恵)の教育に力を入れています。

お母さんたちは多かれ少なかれ、宿題や塾、幼稚園や学校選び、習い事はどうするか、どんな教材を使うかなど、教育や学習について焦ったり、頑張ったり、心配したり、悩んだり、はたまた子どもを叱ったり褒めたりと、子どもの教育には、多大な時間をかけていることでしょう。

同時に、学習させることに一生懸命な親でも、(子どもの存在をそのまま受け入れ、ありのままに見よう)と、自分のやり方を反省したことのないお母さんもまた、あまりいないのではないかと想像します。特に心の中に横たわる、親自身の不安や心配から、子どもに無理強いして何かをさせてしまった後など、反省することは誰にでもあるでしょう。ありのままを見るというのは、仏陀の教えで言えば、八正道の第一の正見(しょうけん)ということですが、正見とは、自分の偏見や観念を通さずに、物事をまっさらに見るという意味だそうです。

私自身は、子どもの存在はありのままでいいと納得した上で、息子が社会に出るまでの家庭での教育は、何もせずにそのまま、自然に任せていたわけではありませんでした。むしろその逆で、一般的に考えられている教育ママのレベルをはるかに超えた、超教育ママだったと思います。ただし教育と言っても「頭:知識や知恵」という、アカデミックな分野の学習のことではなく、ピラミッドの底辺の4つの点となる、頭、体、心、社会の学び、全てにおいてです。

頭の中でビジュアルに思い描いてください。ピラミッドの4辺がいびつになってしまったら、その上に建物を建て難くなります。3Dの立体をイメージしてください。基礎工事した底辺の正方形が大きく、バランス良く整っていれば、その上に建物を建築しやすくなると思いませんか?私たちは、ピラミッドの基礎は親の仕事、そして基礎工事が終わった後に、その上に建物を建てていくのは、いずれ親から離れて独り立ちする、子どもの人生だと考えていました。

自分の子どもに賢く頭が良くなって欲しければ、思考力や記憶力を養うために、特に教育熱心なお母さんたちは、何らかの学習をさせることと思います。しかし、脳を鍛えようと思ったら、身体機能の発達は必須です。そしてまた、身体が健康であるためには、食事や食品のことを学ぶ必要もあります。子どもが大きくなった時、母親がいなくても、自分で自分の健康を守れる知識や知恵を、家庭で継承するのは親の役目です。また頭が良くても、自己中心的では人の役に立つことはできません。社会で機能するための、「感情指数」や「社会的知性」を養う学びは必須です。他者との関わりは学び続けるためにも、とても重要なファクターです。

※「感情指数」と「社会的知性」を検索してください。

そうした相関関係は、例えばアトピーで身体が痒くて集中できなければ、お母さんは子どもの食事に気を付けたり、子どもの体力作りをすることでしょう。それだけでなく、子どもの体力作りをするためには、お母さん自身も元気がなくては、エネルギッシュに活動したり、子どもを外に連れて行くこともままなりません。また絵本の読み聞かせをしようと思ったら、日常生活の中で読み聞かせが習慣となるよう、子どもが安心できる生活習慣を送るなど、学び易い環境作りも重要です。もちろん、子どもが好奇心を持つことや、興味を示すことに繊細に気づき、彼らの心理をグッと鋭く掴める、親の感性や叡智も必要となるでしょう。このように学習能力一つだけとっても、密接に絡み合った多くの事柄が含まれてきます。

さて、4点のうち「1.頭」、「2.体」、「3.心」の教育については、家庭で具体的に何をすればいいのか、想像がつきやすいことと思います。しかし「4.社会」についてはどうでしょうか?もしかしたら人との関係や、集団や、社会との関わりについては、家庭で何をどう教えたらいいのか、少々戸惑われるかもしれません。そこで長年、日本の外に住んでいて感じる客観的な視点から、今後、日本人の子どもたちの将来のために、是非、深く考察していただきたいと思う点について、私の考えをシェアさせていただきます。

他者と共存するために、グループや集団、または上下関係の中で、どう自分を表現していくかなど、他者とのコミュニケーションは、学校という社会に属することで、自然に学び身に付いていきます。「自然に」ということは、それが好ましい好ましくないに関わらず、知らない間に身に沁みていくということです。

教育や社会のモードには、聖徳太子が607年に創案したと言われている、十七条憲法の第一条に記される、「和を以て貴しとなす」という教えが、若干、湾曲された捉えられ方で、日本の土地に雨水のように、浸透しているように見受けられます。この言葉の意味を調べますと、「和を以て貴しとなすとは、何事をやるにも、みんなが仲良くやり、いさかいを起こさないのが良いということ」と書かれています。(故事ことわざ辞典より)

「人と調和して仲良く・・」と言うと、とてもいい感じがします。しかしそのモードが行きすぎますと、「集団から浮かないように」、「人と異なることで顰蹙(ひんしゅく)を買わないように」、「人と摩擦を起こさず波風を立てないように」、「とにかく妥協し人に合わせるように」という空気ともなり得ます。そうして、社会の環境に順応できるよう、子どもたちもまた、スムーズな人間関係を他者と結ぶ訓練を、小さい頃から受けていくことになります。

しかし、それでは国際社会で通用する人間には育ちません。多くの親御さんは、子どもの英語教育にエネルギーを注がれているようですが、英語は子どもが多少大きくなってからでも、先生という他者から、第二か国語として学ぶことができます。が、国際社会で生きるためのコミュニケーション能力は、現状の日本の教育では、どうも他者から自然と学べるものではないようです。ではどうしたらいいのでしょうか?親が教えるしかないのでしょう。そのためには、まずは大人が学ぶ必要があります。

下記のビデオの中で、聖徳太子の真意について一部、「偏見を捨てて徹底的に議論をしよう・・」と述べられています。どうも聖徳太子の真意は、人と妥協して仲良くすることではなかったようです。正しい解釈では、「自分の意見を持ちながら、違った意見を持つ者たちが、こだわりを捨てて一緒に道理を見出していくこと」という意味だったようです。

しかし、感情や偏見や一方的な価値観を捨てて、クリティカル・シンキングをしつつ、なるべく公平な姿勢で議論をすることは、多くの日本人にとって、非常に不得意なコミュニケーション術だと考えます。決して、議論好きになりなさいということではなく、小我を捨てて大我、つまり本当の意味での他者との調和のためには、自分の意見を押し殺して、何も言わなければいいということではありません。

聖徳太子が約1400年前に提案したことができるようになるためには、アサーティブなコミュニケーションを学び、論理的な思考力を培うことが必要でしょう。また、感情に左右された見解になっていないか、他者への思いやりと理解を持ちつつ、コミュニケーションできているかなど、論理的な思考だけでなく、自分の気持ちや感情を客観的に見ることができる、心の在り方も学ぶ必要があるでしょう。では将来、私たちの子どもたち、そしてまた彼らの子どもたちが住む、よりよい社会を築いていくために、私たちは彼らに、どのようにこうした思考の在り方を伝えればいいのでしょうか?

※「クリティカル・シンキング」と「アサーティブ・コミュニケーション」について検索してください。

ちなみに土地が狭く人口密度の高い日本において、大陸で様々な人種が住み、多くの文化が入り混じった国の人たちと、同じようなコミュニケーションは成り立たないとは思います。テキサス人は声が大きいのですが、それは土地が広く人と人とのスペースの間隔が、たくさんあるからだと想像します。牧場では大声を出さないと、離れたところにいる人に聞こえません。でも声もジェスチャーも大きいテキサス人が、日本の田舎の盆地にある、小さな村の小さな日本家屋(彼らには日本のものは全て小さく見えると思います)に滞在したなら、きっと大きな声は出さなくなるでしょう。

異なる文化や慣習を、違う国で押し通さないのと同様に、日本のやり方で外国人とコミュニケーションをしても、言語の特性や歴史や文化が違う人たちとの、コミュニケーションは成り立ちません。アメリカに来る日本人が往々にしてぶつかる問題は、言語(10%)が理解できないことよりも、非言語(90%)を含む、自分自身を表現するコミュニケーションです。非言語では心にある意図は隠せず、体から自然と情報がでてしまいます。

※「非言語コミュニケーション」について検索してください。

さて、もしかしたら共通の認識を持つために、きちんと話し合えるコミュニケーション能力は、日本に住んでいれば、あまり必要がないと思われるかもしれません。しかし例えば身近な問題で言えば、「放射能を懸念して、給食に気を付けて欲しい」と思っている人たちと、「放射能のことを神経質に気にしていたら、何も食べられなくなる」と思っている人たちが、一つのことを一緒に決定しなければいけない状況になることも、大いにありうることではないでしょうか?

または先日、「子どもに家事をさせるべき」と考える人と、「子どもの勉強の邪魔になるので家事はさせなくてもいい」と考える人の討論がありました。意見の相違がある時には、異なる相手の意見を理解しつつ、自分の考えをも理解してらいたいものです。少なくともお互いの意見の相違を認め合うことができれば、感情的に人間関係をもつれさせ、いがみ合う関係とはならないかもしれません。

日常生活で異なる意見にぶつかった時、あなたはいつもどうしていますか?もし、日本の将来を背負う多くの子どもたちが、他者に自分の本心を上手く伝えられずに、いつも角を立てないように、人と摩擦を起こさないようにしていたら、いったい日本の社会はどうなってしまうでしょう?是非、こうしたことを深く考えてみてください。ちっぽけと思われるたった一人の在り方が、その数が多ければ、かなり直接的に社会に影響を及ぼすことになります。そうして一人一人の在り方が反映されて、変化していく将来の社会に、私たちの子どもたち、またその子どもたちが生きていく環境となるのです。

家庭で社会的知性を育むには?

相手の立場になって考えたり、相手の見方を理解するには「多大な想像力」を要します。そして、違った感性や意見を持っている人を理解するために必要な、深い想像力を鍛えるのは付け焼刃では無理ではないでしょうか。しかし、人生で多くの体験や経験をすることで、様々な感情が起こったり、自分自身の複雑な思考に気づき、己を知り、ひいては他者をも理解しやすくなります。

が、子どもの頃から多くの書物を読むことでも、想像力は養われます。人生は小説より奇なりと言いますが、一人の人間が自分自身で実際に体験できることには、物理的な限界があります。ですから子どもが小さい頃から、様々なストーリーに触れさせてあげたいものです。本の世界では、現実の社会では言及されないような人の感情などを、物語を通じて知ることができます。また映像がない本は、言葉を読んだり聞いたりしながら、私たちの脳の中で想像や空想が、ホログラムのような世界となってイメージが作られます。

そうした想像力を鍛えるトレーニングを、小さい頃から何年も続けてきた人と、それをしてこなかった人とでは、目に見えない想像の世界において、顕著な違いが現れると考えます。それは決して形があるものではないため、証明しようがありませんが、でも一を聞いて多くを想像できる人とそうでない人の違いは、少し話をすれば、目の奥から感じられるものはないでしょうか。

さて、私は世界中のクラシックな物語も含め、子どもには多くの物語を読んであげて欲しいと願っています。もし今後、日本の学校制度が益々と、功利的な学問に向かって行くとしたら、なおさら親が家庭で、子どもに物語を読んであげることは、社会のためと言っても過言ではないと考えます。

その理由は先にも書きましたように、相反する相手の立場を理解するためには、想像力が必要だからです。また社会のためだけでなく、自分の子どもを守るためとも考えられます。なぜならばきっと、社会は想像できる人たちによって創造されるでしょうから。ですから想像力がなければ、誰か別な人が想像して創造した、社会の中で生きるだけになってしまいます。


  • 1)現在、お子さんがまだ1、2歳の方は、今は物語を読むというよりは、本を読んでもらうことが好きになったり、読み聞かせを習慣とする段階かもしれません。お子さんの年齢、またこれまでにどのように読み聞かせをされてきたかで、物語の読み聞かせには何をどうしたらいいと、はっきりと定義することができない、それぞれのバックグランドがあります。
    あなたのお子さんの場合はいかがですか?物語の読み聞かせをしてあげたいと考えた時、何をどう取り組みしていったらいいでしょう?もしくはどのような改善ができるでしょうか?
  • 2)下記のビデオをご覧いただき、もしよければ感想をグループのコメントに書いてください:
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